1985-05-21 第102回国会 参議院 内閣委員会 第11号
おまえは日本の士官学校はだめだが満州国の軍官学校だったならば入校させてやるからそっちへ行けという指導も行われた。いろんな事実があるわけでございますね。さらに作戦の具体的な運用を考えましても、関東軍の計画下、指揮下で行われておる。私はこういうようなことが、日本軍の指揮下の戦死者の靖国神社の合祀の問題、公務扶助料の問題、この背景にもなっておるんじゃないか、こうも考えられるわけでございます。
おまえは日本の士官学校はだめだが満州国の軍官学校だったならば入校させてやるからそっちへ行けという指導も行われた。いろんな事実があるわけでございますね。さらに作戦の具体的な運用を考えましても、関東軍の計画下、指揮下で行われておる。私はこういうようなことが、日本軍の指揮下の戦死者の靖国神社の合祀の問題、公務扶助料の問題、この背景にもなっておるんじゃないか、こうも考えられるわけでございます。
請願 (第二五六〇号) ○引揚医師に関する特例法の期限延長 に関する請願(第二五七二号)(第二 五九三号)(第二五九四号)(第二五九 五号)(第二六二二号)(第二六八五 号)(第二六八六号)(第二七〇七号) (第二七二〇号)(第二七二一号)(第 二七四六号)(第二七四七号)(第二七 七七号) ○保育所、乳児院の増設等に関する請 願(第二七四九号) ○元満州国軍日系軍官及び同陸軍軍官 学校
それで、蒙古軍の軍官学校から頼んできて、生徒が軍官学校に行ったように申し上げましたが、これは、自発的に義勇軍の身分を脱落いたしまして、親の許可を受けて当時行ったので、義勇軍は純日本の子供であり、大使館と関東軍の指図のもとに動いておりまして、満軍及び蒙古軍の指揮命令というのは全然別個でございますから、誤解のないようにお願いいたします。
○近藤参考人 満州内の蒙古軍でありますが、蒙古の軍官学校に訓練生の中から優秀な生徒を出してもらいたいというふうな関東軍からの要望もございまして、からだの大きな優秀な生徒をたしか百名くらい興安にありました蒙古の軍官学校に派遣をいたしまして、二カ年くらいその軍官学校で訓練を経て、優秀な蒙古軍の将校とか下士になった例もございます。
第二は、リヤンピヤオ——リンピヨーと読みましようか、あの林彪将軍がソ連の軍官学校から帰つて参りまして、それに、日本軍が満州で武器をとられたのがみな林彪将軍の手に渡つたので、すぐにその場でもう満州を平定し、一年後には長江の南に進んで行つたのであります。すなわち、倒れる前には疑獄事件がいつぱい起る。
その満州国の軍官学校の教官をしていてつかまつて行つた人間が、やはりソ連側のとらの威を借るきつねでやつておつたわけです。ちようどわれわれの部隊には約二百名ぐらい——奉天でワンサン事件という——これは終戰後日本軍のくずれ、それから奉天におつた在留邦人の血の気の多い者が、あの終戰の当時、日本軍も全部解体をしたということで行くべき道がない。
爾後昭和十一年一月十八日福岡第二十四連隊に入隊、甲種幹部候補生に合格、爾後ハルピン歩兵第四連隊において見習士官勤務、終了後満洲国軍政部職員として奉職、爾後満洲国陸軍興安学校に入校、卒業と同時に満洲国日系軍官として同興安軍官学校に奉職、爾後終戰まで八年間同軍官学校の教官として奉職いたしました。
これは私が以前奉職しておりました興安軍官学校というのが、ソ連におきましては一つの謀略学校ではないかというような見解を持つておつたわけであります。従つてそれに関して私がソ連で取調べを受けたので、それに対するさらに取調べを進駐軍でやられたわけであります。